夫が何かの折に、
次女のことを「英才教育だから」と言った。
産まれたときからテレビなし、音楽なし、洗剤なし、薬なし・・・
など、育児の路線が定まっていたからだ。
畑で作業しているとき、視界の隅に次女が入った。
とて、とて、とて。
歩いてきて、ススキを拾う。
高く空に掲げて、じっと見る。
すいー、とトンボが流れていくのを
ススキ越しに、じぃーっと見る。
ススキと、トンボと、空と、風と。
いま、声をかけてはいけないな。
そう感じた。大切な時間なのだと。
またある時、テラスで長女と泥んこ遊びをしたあと
放っておかれた次女が、延々とおままごとをしていた。
いろいろと考えながらやっているらしい。
容器を並べて、泥団子をひとつずつ運んでは、入れていく。
濡らして、取り出して、また配って。
ボウルを持って、またどこかに運ぶ。
1時間以上、一人で真剣に遊んでいた。
声をかけないで見守ろうと決めて、
長女とリビングから、隠れて見ていた。
次女の感覚がどんどん開いているのを感じる。
最近、車でちょっと畑に寄って
次女には、車から外を眺めて待っていてもらうことがあった。
手間取って結構遅くなっても、結局1時間かかってしまっても、
次女は何も泣かず、ちょっと不思議になった。
そーっと見に行くと、虫の大合唱に聞き入っていた。
開けた窓から見える畑、草、花、空、飛んでいく鳥たち。
聞こえてくる虫や鳥の声、風の音、飛行機、近所の犬。
花の香り、土の匂い。草の、風の、お日様の香り。
サラウンド。
小さなチャイルドシートに腰掛けて、
まさにそのとき、次女は全身で世界に耳を傾けているのだった。
次男である夫と、次女である私はそれぞれ、
一人でずっと何かに没頭して遊んで育った。
特に幼少期、二番目の子には母の手が回らず、
割と放っておかれたからだ。
4歳半から家庭保育を始めた当初、
一人じゃ遊べなーい、つまんなーい、大人が何かしてよー、
と言う長女が全く理解できなかったのだが、
10ヶ月から保育園に預け始めた長女は、
「何か楽しいこと」を「大人が」用意してくれるのを
受け身で待つようになってしまったのだった。
ずっと保育園に行っていたら、気づかなかったこと。
長女の産まれた頃は、私が全く意識していなくて
“教育”テレビというんだから、
子ども向け・赤ちゃん向け番組があるから
見せようと思って、喜ぶだろうと、見せていた。
そのうち、家事がはかどるからとか、
言うことをきかせるため(動機づけ)に、テレビを使った。
CDについても同じで、もらったもの、買ったもの、
“子どもの喜びそうな”音楽をよく聴かせていた。
童謡とか、オルゴール曲とか、絵本を歌にしたのとか、
知育っぽいのから、教育テレビの人気曲、アンパンマンまで。
車ではおとなしくさせるのに使っていた(つもりだった)。
曲をかけていればそっちに気が向くから。
それに、狭いアパートに暮らしていて、
長女が何かするたびに声をかけ、ベタベタ一緒にいた。
その頃は、それが普通だったし、それでいいと思っていた。
でも今思うと、子どもに「余白」がなかった。
テレビに頭を奪われ、音楽で耳を奪われ、
私があれこれ介入して、遊びや行動をリードしていた。
長女には“与えること”ばかり頑張ってしまったな、と
今更ながら反省している。
次女は「余白」をたっぷり楽しんでいる、まさに英才教育だ。
長女には、余白を与えずに育てたことを意識して
丁寧に過ごし方を考えていかないとなぁ、と思っている。
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むかごごはん。懐かしい〜
炊きたてはまるでバターの風味なんですよ。不思議!
子どもの頃、これに塩ふって食べたっけ。
ごちそうさまでした!